少年じゃなくなりました

本日、日本国内において法的に少年から成人になりました。 今日から実名報道されます。お酒を合法的に飲めます>誰か飲みに行きましょう

感謝

こんな息子を辛抱強く育ててくれた母と父、良くも悪くも(笑)影響を与えてくれた学校の先生方(とりわけ、中学校で出会った英語の先生と、高校で出会った2人の先生)、転機になった高校の友だち、大学で出会った優秀な友人と変人諸君(日付が変わって早々思い思いに捻くれたメッセージをくれてありがとう。性的なものが多かったのは気のせいか)

10代のおさらい

10代を簡単におさらいしておきます。

前半部分は書かないつもりだったけど、もういいかな、という感じがしたので書いたみた。 もし同じような境遇の人がいれば、この有様を見て自信にでもしていただければと思います。

10歳(2002)

地元の普通の小学校に通う小学4年生だった。 勉強は特に嫌いじゃなかった。このときの担任の先生は僕を信頼してくれていて、僕もそれに乗せられて学級委員みたいなことをやっていた。

学校に通うことに違和感を覚えたのもこの時期で、いろんなことで縛られていると感じた。学校に行ってからも「あと○時間で家に帰れる」ということばかり考えていた。期待されたことに取り組むのに疲れてきたのだと思う。この頃の僕はちょっとだけ処理能力が高かったようで、そのせいで余計に仕事が増えた。母に「別にすごいことはできなくていいから、普通に生活したい」みたいなことを言ったらしい。とんだ思い上がりだけど、本気でしんどかったんだと思う。

11歳(2003)

ある日、熱が出て、何日か学校を休んだ。体調がよくなってしまってからは、体温計をこすって体調が悪いふりをした。

久々に学校に行ったとき、やっぱり学力差が開いていた。先生の気遣いが余計に屈辱的だった。何週間も休んでいるとクラスメイトが手紙を書いてくれた。それを読んでいると、嬉しいより情けなさが勝って泣けた。自分も堕ちたものだと思った。

冬には何週間も休むようになってきて、母と父も困っていたと思う。無気力で、ほとんど寝ていた。確かこれくらいに通院し始めたり、カウンセリングを受け始めたりした。どうやら鬱っぽかった。ちゃんと診断して病名をつけてもらえて助かった。

12歳(2004)

中学校に進学した。はじめの1か月くらいは登校した気がするけれど、あとは忘れた。

学校の相談室に行ったり、不登校児が通うスクールに行ったりした。やっとゲーム・落ち込む・寝る以外の活動をするようになってきた。写真撮ったり、Webページの作り方(HTMLとCSS)を覚えたりした。勉強はあまりしなかった。

13歳(2005)

不登校児のスクールも合わなくなってきたように感じた。そろそろ勉強しないとやばい気がしたので、学校から渡された英語の問題集を解いていた。 ここらへんは本当に記憶がない。

14歳(2006)

学校でマンツーマンで英語や数学を教えてもらえることになった。

特に英語は女性の先生で、余計にがんばった。すると3か月くらいで学校の進度に追いつき抜かした。授業に出ていないくせに英語のテストはクラスで10番以内だったと思う。このことがあるので、今でもわざわざ中学校に行って課程通りに勉強する必要はないと思っている。

この先生は高校入試までずっと英語を教えてくれて、本当に大好きな先生だった。もう会えないのが本当に残念。

15歳(2007)

高校入試。内申点が皆無に等しかったので、県内有数の底辺校か、お金を払えば通るような私立高校くらいしか選択肢がなかった。はじめは私立高校と思っていたが、いわゆる一般的な学生生活に未練があって、公立高校に進学することにした。

受験勉強をしなければいけない時期に、ふとプログラミングに挑戦してみたくなってC言語Rubyを勉強した。これが高校で競技プログラミングに打ち込むことになり、大学でコンピューターサイエンスを学ぶことになるきっかけかもしれない。

なんとか例の底辺高校が僕を合格させてくれて、再スタートを決意した。

16歳(2008)-

以降のことは以前書いた。

前半とは打って変わって元気でした。

文体に若さを感じる。

まとめ

この10年は通り雨と濁流という感じだった。嫌なことも良かったことも飲み込んで流してしまって、あとには変な形をした土壌が残った。

10年前、僕は「そうあるべきもの」、理想ばかり考えていた。向上心があると言えば聞こえはいいけれど、上ばかり向いていたら肩も凝るし穴にも落ちる。実際、穴に落ちてみて、本当に「そうあるべきこと」は多くないことに気づいた。それは周囲の考えだったり、自分の思い込みだったりする。だから、ある意味諦めみたいな一歩引いた姿勢で接するのがちょうどいいと今は思っている。

理想を目指すのは自然だし、悪いことじゃない。ある程度の位置まで登ってくるともっと上を目指したくなってしまう。

これは自分の場合だけじゃなくて、誰かを育てているときに顕著に起こる。これが恐ろしい。

一年前くらいに実家で「のだめカンタービレ」を見ていて、ある場面が印象的だった。ピアノが上達するように厳しく練習させられるのだめが「なんでそこまでして勉強しなきゃいけないんですか?自由に楽しくピアノを弾いて、なにが悪いんですか!?」と言うところ。のだめはピアノの才能があるから、もっと指導してもっと高いところまで連れていきたいという指導者の意思は理解できる。でも、それを決める権利があるのは本人だ。

「期待している」っていう言葉は、なんとなく言ってしまいそうな便利な言葉だけど(塾講師やっててもたまに言いそうになる)、すごく自分勝手だと思う。僕も小学校のときによく言われたが、その言葉でどれだけ縛られていたか。違う人間なのだから、ある程度諦めや寛容が必要だと思う。

人に言うのと同じように、自分に対してもそんな気持ちを持ったほうがいいと思う。変に期待されていたと思うとしんどい。本当にやりたいことは力を尽くしていいけども、人が描く理想像には合わせなくてもいいと思う。

数年前の正月に引いたおみくじにこういう歌が書いてあった。

春風の吹けばおのずと山かげの梅も桜も花はさくなり

「無理してがんばらなくても(がんばらせなくても)なんとかなるでしょ」みたいな一歩引いている感じがあって、すごく気に入っている。

10年間いろいろあった。学ぶことも多かったけれど、もう2度と味わいたくない。

同じことを繰り返さないように、これからもambitionは持ちますがそれに支配されない程度の諦めを持って望む所存でございます。

余談

この間、バイト先で割としっかりした心理テストを受けたのだが、結果に「自分の力を過信することなく」「周囲に流されることを嫌う」「自分の力を客観的に見ており、過信しない」「自制」みたいなワードが並んでいて感慨深かった。